観客はしばらくブルース・リーになりきっていたという。
あぁこういうことかと思った。
『博士の愛した数式』を観終わった後、
私は博士(寺尾聰)になっていた。

歩き方、仕草はもちろん、こう たたずまいが博士だった。
世界の見え方が少し変わった。
今まで通り過ぎてしまうようなことも、立ち止まって
考えることができた。
たとえば、図書館や駅などの公共の施設に置かれた銅像。
重々しい場所になればなるほど全裸の可能性が高いことに
気がついた。
人が行き交う中しばらく眺めていると、銅像とその場を
取り囲む環境とのコントラストが、陰と陽の対比を醸し
出しているようで実に趣がある。
今まで選んできた学科や職業は理数系に片寄っていたが、
私の心は常に純文学だった。
数学の公式はあまり覚えてこなかったが、ひとつだけ
忘れられない公式がある。
物理の講義で、先生が「オイラーの公式」を頻繁に口にしていた。
「オイラー、オイラー」と繰り返すたびに、なんだかその先生が
編み出した公式なのだと間違った解釈をしてしまい、その学期の
物理のテストは点数一桁だった。大学一年の春。
ほろ苦い思い出だった。
忘れかけた記憶が博士によって、ひとつよみがえった。
こうして話すことによって、記憶は無へと還っていくような気がする。
実にすがすがしい気分だ。